はじめに
下記記事の続きです。
ここまでで、やりたいことをやるために行動を起こそうと思ったきっかけについて話してきました。
本記事では、なぜ色々手段がある中でも博士課程を選択したのかを書いていきます。
そんなにやりたいことがあるなら職場を変えれば良いのでは?
人事異動は?
真っ先に思い浮かぶのはこれでしょう。当然、会社の正式なキャリアプラン希望として、私は入社一年目から継続してロボット関連の部署への希望を出しております。(多分、良い子は真似してはいけないかもしれませんが笑)
でも、ある程度の規模の会社だと、希望を出せばおいそれと通るようなことなど、そうそうあり得ないでしょう。人事にも色々な事情があるようで、個人の希望なんて一々聞いていたら組織が成り立たないわけです。
そこで、自分が希望する部署の方を相手に、学生時代の研究成果を紹介したり、寝る間を惜しんで希望部署の人が抱える問題を一緒に考えたり、シミュレータを自主的に開発して実験結果を提出したりと、自分ができることは色々やったと思います。終業後自宅でいそいそとやっていたかなと。
それでも、やっぱり何も変わりません。そんなことくらいで人が動くほど、企業の人事はゆるいものではありません。人事異動とは、個人の都合でどうにかなる問題ではないことを、はっきりと悟りました。
そもそも、人事異動などという他力本願的なものに自らの人生を委ねるという考え自体が、(少なくとも私の価値観と照らし合わせると)誤った考えであると、明確に認識するようになりました。大人の階段です笑。
本気でやりたいことをやるなら、自分で道を切り開くしかないのです。
会社員なんてポップコーン一粒みたいなもの
私が配属の希望を出すことなんて、映画館で買えるような大きな容器に入った大量のポップコーンのうちの一粒がちょっとしょっぱくなったかな?程度の価値のものなんだと思っています。
その一粒が、多少他のポップコーンよりしょっぱかった所で、他の多数のほどよいしょっぱさのポップコーンに埋もれてしまうわけです。映画を見ている人にとっては、ポップコーンが一粒しょっぱかったところで何も気になりやしないものです。
むしろ、一粒だけ妙に味が異なっていると、ウワッなんか有る!なんて避けられたり笑。
さしづめ、そんなもんだと思っています。
転職は?
その手段もあるでしょう。
しかし、希望は通らなかったとは言え、会社、社風自体は嫌いではないのです。とてもいい会社と思います。 職場の人間関係も良好で、仕事についても悪い評価を得ているわけではありませんでした。
そりゃー不満が全く無いかと言われればさすがにそう言うのは難しいですが、一切の不満が無い職場なんてそもそも存在しないと思います。どこで働いても、何かしらの不満は避けられないのが現実です。この世界に地上の楽園など存在しないのですから。
少なくとも今の職場では、贅沢はできませんが、家族を養い、たまに外食を嗜む程度に、生活を楽しむことができていましたから。
それに、やりたいことができる部署自体は存在しているし、異動が絶対叶わないとまだ決まったわけではありません。
冷静に自分の状況を分析すると、私ごときの人間としては、そんなに悪いポジションではないのです。
多数のポップコーンの一粒とは言え、今の御時世、一応美味いと思って食ってもらえるだけ、恵まれていると考えることができます。
意識の転換
そもそも仕事にやりがいを求めるというのは人生のウソ
そして、思うようになります。
だってそうでしょう?散々世の中で謳われているこの概念。これだけ煽っているのにそれを享受できている人間は、おそらく全体の1%にも満たないでしょう。
就活では個性を出せ、やりたいことをはっきりさせてプレゼンしろと要求するのに、入ったら希望は一切受け付けませんという、とんでもない矛盾笑。
それなのに、やりがいなどという幻想に囚われて精神が乱れてしまう。しかも、決して乱れたいなどと思っていないのに、乱れてしまう人が大多数なのではないでしょうか。
人間は誰しも幸せな人生を送ることを望んでいるはずなのに、こんなのは明らかにおかしいです。
ここまで来ると、そもそもそんな価値観自体に問題があるのでは?と思うのが自然ではないでしょうか?多分、この社会に長く浸かる過程で、すっかり刷り込まれてしまった価値観なのでしょう。何というか、私達労働者は、いい具合に社会で効率的に行動するように扇動されているのではないかと、疑いたくもならないでしょうか?
資本主義社会に生きる
今更すぎて恐縮すぎるのですが、私たちは資本主義社会で生きているのです。どう考えたって力関係はこうです。
つまり、労働者は労働によって生み出した価値の対価としてお金をもらえるよ、ただし資本家の思惑に従ってくれさえすればね、というシンプルな構造なのです。
この構造は、ある程度は仕方のないことでしょう。実際、経営者は能力があり、我々労働者レベルでは想像のできない程の大きなリスクを背負って会社を運営しているのです。彼らにもそれなりの対価が支払われるべきでしょう。これはある意味自然の成り行きですし、それは資本主義社会を支えるインセンティブ設計が具現化した姿なのです。
自分で起業しているわけでもないのに、仕事にやりがいがない・やりたい仕事ができない等と嘆くこと自体が、そもそも不毛なことであり、苦しみを生み出す根源なのではないか?そう、思うようになりました。
好きなことは金を払ってやる
とは言え、やりたいことはあるわけです。それをやれないまま、ただ配属の希望が通らなかった等という理由でヤキモキするのは辛いものがありました。
希望がいつか通るかもしれないという確約の無い期待だけを抱き、指をくわえて待っているというのは、やっぱりしんどいんです。
起業するほどの実力のない私が、この資本主義社会で生存しながら、労働者として、自分のやりたいことをやる方法はなんだと、考えを巡らせました。
そして得た結論はコレです。
「好きなこと・やりたいことは、金を払ってやればいい。」
そう。ここは資本主義社会です。労働で獲得した賃金を使って、余暇でやりたいことをやればいいのです。額が大きいなら、少し我慢して貯金してから、ドカンと使えば良いのです。
人生≠仕事
これを機に、仕事を人生の目的にするという考えは棚上げとなりました。すると、悩みなんてすっ飛びました笑。今までなんとくだらないことで悩んでいたのだろうと。これは決して強がりではなく、本当に心がスッキリしたのです。
仕事なんて所詮、自分の人生を豊かにするための手段でしかないのです。その人生をどう豊かにするかは人それぞれでしょう。
ただし、何をするにせよ、多かれ少なかれ金は必要です。いくら綺麗事を言おうと、経済力が物を言うのがこの資本主義社会なわけです。
だから、働くのです。家族を養うため。そして、余剰資金で適度に好きなことをして楽しむ。
実にシンプルではありませんか。
ドライなようだけど
極めてドライなようですが、守るべきことはあると思います。
仕事については責任を持って成果を出すべきだし、職場の人間関係、社外の関係者との信頼関係は手を抜かないで維持するべきだと思います。
あくまで、「人生=仕事」という偏った構図から生まれる苦しみから抜け出すために、少しドライな風を頭にふかしてやろうというだけのお話です。
キャリアを断念したわけではない
しかし、キャリアを諦めるという話ではありません。
ここで身につけたスキルを、将来自分で切り開くために活用すると考えればいいです。
きっといつか、ここでの経験が活きるはず。社会にとって何らかの価値を生み出し続けるような努力をひたすら続けるれば、必ずどこかでチャンスが巡ってくる。
そう信じて、今は採算度外視で、仕事と並行で、やりたいことをやろうと思うに至りました。
そして博士課程
どうすればやりたいことができるのか?
そして本題です。
わたしのやりたいことはロボット工学の勉強・研究です。金を払ったってかまわないから、これを実現できるフィールドはどこだ?それが問題です。
ただ趣味でやる。それも悪くありません。実際、結構楽しいです笑。だけど、そうじゃない。何か、こう、大義名分のようなものが欲しかった。地位や名誉とか、そういうのはマジでいりませんでした。そういうのは、何か事を成した後に結果としてついてきたらラッキー程度のもので、あまり私の人生に関係はありません。
ただ、やるぞ!っと思える取っ掛かりのようなものが欲しかったのです。
するとおあつらえ向きの場所が思い浮かびます。
大学院がうまそう
そう、大学院です。私は修士卒なので、次のステップは博士課程です。
研究室の先生や学生と議論をしながら、実験や論文執筆、学会発表を行うのです。論文や学会には締切があり、ペースメーカーにもなります。
それに、大学は真理を探求する場所です。その姿勢が何とも気持ちいいではありませんか。
これを言ったら場の空気を乱すのではないか?などと余計なことを心配すること無く、純粋に科学に向き合うことができる。そんな素晴らしい経験ができる唯一の道が大学院で、修士卒だった私が目指すべき学位が博士だったのです。
なんで博士課程?という問題提起から始まりましたが、色々紆余曲折しながらここに行き着いたわけです笑。
博士課程にも色々
ただ、博士と一言で言っても、色々な形態があるわけです。
その中でも私は、社会人博士を選択しました。
なぜ社会人博士なのか?
それは、次回お話することに致します ^^