努力すれば誰でも勉強できるようになる?
こういうこと、親や周りの大人から言われた経験、ありませんか?特に近しい人だと、怒りを含む口調で言われることもあるのではないでしょうか?
いや、本気でやっているんですけど…
私はあります。そしてこう思うのです。
同じような感情は抱いたことのある人は、私だけはないのではないでしょうか?
たちが悪い
言われた方としては、これは辛いものです。
その上追い打ちをかけるように、言った方はこう思うのです。
と。同じような類のこと、やっぱり私も言われました。
こっちとしてはそんなセリフ、本当に慰めにもなんにもなってないし、ただ精神的に辛いだけだから勘弁してくれと言った所で、
と言う返しがくるのです。
つまり、言っている方は自分が正しいことをしていると思っているのですから、余計にたちが悪いのです笑。
こうなるともはや当事者間での対話では解決しようが無いでしょう。
だから私は、「結果が出ないのは努力が足りないからだ」と短絡的に怒鳴りつけることが正しいと思ういう考え方を、忌み嫌っているのです笑。
対応例
とは言え、他者の考え方を自分一人の思惑でコントロールすることはできないでしょう。この社会で生きていく上で、上述したような状況になることは、避けることは難しいのです。
私だったら、まずは自分が折れるようにしています。実際、努力が足りないといった主張も、理不尽かも知れないにせよ100%全くの筋違い、とまでは言えない部分もあると思うからです。
だからもう余計なことは考えずに
と素直に返答して、反省できる点を洗い出し、次回は完璧ではないにせよ自分なりに改善するようにします。
どうしても納得出来ないほど辛いときは、瞑想をして眠ってしまえば翌日にはスッキリしているものです。変なプライドは捨てたほうが吉です。
もちろん、明らかに常識や人道といった社会通念に反することを言われればこっちだって黙ってはいないでしょう(だからと言って感情にまかせて、声を荒げたり、泣いたり、暴力をふるったりして相手を支配していいということではないが)。
しかし、プライドを捨てたところで何を失うというのでしょう。個人のプライドに執着したところで、それが何になるというのでしょう?それは社会に一切何の貢献を果たすことはなく、争い生むことが多いわけです。
執着から離れることで、穏やかな精神と良好な人間関係が生まれるのです。プライドなんて喜んで捨ててしまったほうが良いように思うのは、私だけでしょうか?
と言われるであろう話題と思うので少しだけ触れますが、そこはうまく折り合いを付けようよ、とうことです。ここでプライドを発揮することで、ライバルと呼べる友との切磋琢磨したがいに成長できる、あるいは結果として社会に貢献できる、と判断できれば、プライドを発揮すべきでしょう。ただし、あくまでプライドは手段であり、目的となってはなりません。最悪の場合、自分の勝利に目がくらみ、相手を貶めるために卑怯な手すら使うようになるのですから。
ここで言いたいことは、
ということなのです。
生まれ持った才能や気質の違いがある
さて、話を戻しましょう。
だって、生まれ持った才能や気質によって向き不向き・好き嫌いってのはどうしたってあるでしょう?
趣味や娯楽なら受け入れられるが
例えば、ある人は車が好きで、ある人はゲームが得意で、ある人はサッカーが好きで、ある人はダンスが得意で、と言う具合にいちいち挙げていったらきりがない具合に人の適性なんてまちまちだ、と言うと、これは案外否定されないのではないかと思います。
勉強になった瞬間話が変わる
しかし、こと勉強に関してはうまくいかないと「努力が足りないんだ」と一蹴される傾向があるような気がしてなりません。
先に上げた個性により人の適性に多様性が生じるのと同様に、勉強ができるかどうかだって個性に依存することがあるはずなのなのに、ことさら勉強だけは努力でなんとかさせようとする圧力が強いように思うのです。
子供への配慮もあるのだが、ずれていることもある
そのくせ面白いのが、例えば親が息子の東大合格サポートしたという話が出てくると、
と一直線で非難する声があがるということです。
もちろん、先に述べたように、本人が全く望んでないのに勉強を強制された子も一定数存在するでしょうし、それはかわいそうだと私も思います。これは本エントリでの主張に通じるところでもありますので、この配慮のセリフそのものを否定するつもりはありません。
しかし、東大に合格してしまうようなほど学力のポテンシャルが高い人については、前提条件が違うことを考えるべきだと思います。ものすごい努力をしたにせよ東大に合格できる人なら、程度の差はあるにしろそれなりに知的好奇心が旺盛な場合が多いでしょう。難解な物事を理解したり、問題を解いたりするといった行動に対して、そこまで抵抗感は抱かないのではないかと思います。むしろ、分かったぞ!という体験が快感だったりすることもあるでしょう。
つまり、先の東大生の例の場合は、我が子がもつ勉強のセンスや才能を適切に見極め、親はそれを支援したと思えば、別にそこまでおかしい話ではないかと思います。まぁもし怒鳴り散らされるような超スパルタ指導をされたとしたならば、その行為に対する不満は抱くでしょうが、ひとまずそういう極端な例は外すことにしておきましょう。
そして、勉強自体はそこそこできてしまうのですから、結果としては大人の期待に応えることができ、少なくとも「そんな風に勉強しろしろ言われても、こっちは本気でやっているし、できないものはできないんだよ…」と言った観点での悩みの重みは比較的軽度となるでしょう。
(もちろんこれはあくまで傾向の話であり、これを一般化したりはしません。それに、頭のいい人にはいい人なりに、日本の社会背景的にも卑屈になりやすくなってしまうなどの複雑なコンプレックスもあるでしょうから、頭のいい人は何も悩みがなくお気楽だなどと言うつもりはありません。)
ここで言いたいのは、
ということなのです。
センスや才能がある子を対象としたさきの例とは本質的に事情が異なるのです。
むしろ多様性があることが良い
もし本当に努力だけで勉強ができるようになるなら、皆東大生(ハーバードやMITでもいいです)並に頭が良くなるでしょう?でも現実としてそうならないから、多様な人材が生まれて、結果として豊かな社会が築かれていくのでしょう?
精神衛生の面で考えても、自分のやりたくないことを延々とやらされて鬱々とするくらいなら、得意なことを仕事にして喜々として社会貢献をするのが健全ではないかと思うのです。
もちろん、勉強ができることは素晴らしいことです。そういう人には(偏った妬みは排除して)きちんと敬意を払うべきだし、彼らもその明晰な頭脳を活用して社会を良くする活動をすることは大切なことです。ただ、世の中全員(特に自分の子供)に対して、そうなることを期待するような考え方を見直しませんか?というお話なのです。
ただ試験でいい成績を取ることを至上の目的のような価値観を相手に無条件に押し付けて、うまくいかないときは努力が足りないせいだなどと一方的にまくし立てるなんて、あまりも理不尽ではないでしょうか?
勉強ができる人の能力を尊重するのと同様に、勉強が苦手だという人の持つ気質を尊重するのはいかがでしょう?それは多様な価値観を認めることに繋がり、社会を豊かにすることにつながっていくのだと思うのです。
試してダメなら降りればいい
だから、何をするにせよできない人をいちいちバカにするのは無し、という社会にならないかと思うのです。
何をやるにしても、類まれなる才能を持つ人以外の殆どの人は、最初にやるときはそれが好きになるかどうか、得なのかどうかなんて分かったもんじゃないでしょう。
だから、まずはどんなものだろうかと気軽にやってみて、少し続けて明らかに自分に合わないと思ったら、とっとと降りて次のステップに進んでもらえば良いと思うのです。一度始めたのだから一生勤めあげないといけないみたいな変なプレッシャーなんてなければいいのにと思うのです。
あとは本人次第
そして、そんな風に自分の適正を見極めて降りたことに対して、弱虫・意気地なし・社会を舐めた甘い人間などと言わんばかりの態度で過剰に攻めたりしないで、温かく見守っていればよいのではないでしょうか。
その後どうするかは、本人の問題なのですから。